パターン認識という名の怪物

ハチワンダイバー」という将棋を題材にしたマンガがある。
以前、このマンガがテレビドラマ化され、家族で観て楽しんだ。
そのドラマのサントラCDも購入し、時々、ビデオ編集のBGMなどにも使っている。

フジテレビ系土曜ドラマ ハチワンダイバー オリジナル・サウンドトラック

フジテレビ系土曜ドラマ ハチワンダイバー オリジナル・サウンドトラック


このCDのケースの内側には、盤面をデザインした図柄が印刷されている。


ある時、このCDのケースを開きっぱなしで置いていたところ、ケンがそれを見つけ、
「あっ、これ!阪田対関根の東西対局の投了図!」と言った。

本当か?と思い、コウにもCDケースを見せると、「これ、阪田対関根の投了図でしょ!」と即答。
二人に「何で駒の名前も入っていないこの図案から判るの?」と聞くと、「この駒の配置で判る!」らしい。

信じられない気持ちで「阪田対関根の東西対局」というのを調べてみると... あった!
大正二年4月7日に行われている。
その投了図がこれ。(4五歩まで)



正解!
過去に一度、何かの本で盤面を見たことがあるらしい。
それだけで判るのか?
将棋をする人なら当然判る事なのかどうかも私には判らない。

駒の配置だけで判ってしまうとは、まさに恐ろしき「パターン認識」(なんだと思うが...)


駒の動かし方は勿論ルールに則って行われるが、それぞれの一手一手には意味があり、その結果としての駒の配置にも意味がある。
(将棋を指さない私でも、角頭の歩を突く無意味さは理解できる。)
なので、将棋を指す人にとってみれば、(特に)プロ棋士が指した盤面図の駒の配置は「意味ある」モノとして認識されるのであろう。




「意味」が紐付けされたパターンは、意識下にしろ無意識下にしろ「記憶」され易いはずだ。
実際、本来「意味」の付いていない年号(794,1192など)や周期表元素記号の配列などは、「語呂合わせ」という手法で
「意味」を付与し、覚えたりする。
「意味」が付いているいろいろなモノに対しても、興味の有るモノに関しては、その人にとって「意味」付けの度合いが深かったり、
「意味」のパターンが多かったりするので、容易に覚えられるのではないか。


世に言う「有名な芸術作品」も、それ自体多種多様な「意味」を本質的に持っているのか、もしくは観る人の側に
作品を観たときに何らかの「意味」を想起させる、「意味」の上位概念や「メタ意味」と言うようなモノが備わっているのだろう。





話を「将棋」に戻そう。
先ほどのCDケースの盤面図を「阪田vs関根戦」などと瞬時に指摘されてしまうと、邪な親としては「勉強でもこれくらいの記憶力を発揮してくれれば...」
などと思ってしまうのだが、先程の仮説では「興味のないモノには発揮されない」筈なので、なかなか上手く行かない。



「先を読む頭脳」に面白いことが載っていた。

先を読む頭脳 (新潮文庫)

先を読む頭脳 (新潮文庫)

アマ初級者、アマ有段者、トッププロ棋士、の3グループに、初手から60手進んだ局面(プロ棋士の実戦譜)を3秒間見てもらい、その後、盤面を再現してもらう
という実験を行った。
見てもらう実戦譜に「タイトル戦などは除く」の但し書きがあるのは、プロ棋士でも極力「見たことのない譜面」にした、ということだろう。
結果、正確に盤面を再現できた正解率は、アマ初級者45%、アマ有段者70%に対し、トッププロ棋士は90%と高い数字が出た。
60手目以外にも20,30,40,50手目の譜面でも実験を行っている。40手目まではプロ棋士と同レベルの正解率を誇っていたアマ有段者も、
50手目からは正解率が70%に低下する。それに対し、プロ棋士は90%以上の正解率を維持している。


同時に、以下の様な60手進んだ譜面でも実験している。

これは実戦譜ではなく、ルール通りにランダムに駒を動かした60手目の盤面図だ。
私ですら強烈な違和感を覚える。
プロ棋士の正解率は50%を下回る。アマの正解率40%とあまり変わらない。
20〜50手までの譜面でも、プロ、アマ問わず、正解率は50%程度であった。


やはり「意味」を持たない譜面は、見たこともない、それこそ他の天体の風景の様に見えるのだろう。



「風景」ついでに言うと、次のような本がある。

ぼくには数字が風景に見える

ぼくには数字が風景に見える

著者は数学と語学の天才だ。著者は数字を見るとそれぞれ固有の色や形を持ったモノに見える。なので、複雑な長い数式も色や形が組み合わさった美しい風景に見える。
そして、その風景から一瞬にして答えが見える。
だから素数なども一瞬でわかる。
私も2桁の素数には何か「ゴツゴツした」岩のような感覚を覚える。しかし3桁になるとあやふやになり、4桁ではかなり怪しい。


プロ棋士も盤面を見ると、それは「美しい風景」に感じられ、その風景の中を歩く(=幾つかの候補手の中から最善手を選ぶ)のではないだろうか。
風景が見えて、目の前に道が広がっていれば、わざわざ崖に繋がっていそうな、道を外れた方向には歩いて行かないであろう。
これが、ルール上選択肢は沢山あるのに、その中の限られた選択肢のみを無意識or意識的に選んで検討する、ということなのだろう。

「風景」が見られないコンピューターは、それこそ、ありとあらゆる選択肢を検討し(「こっちには崖がありそうだな」と思っても、
実際に行ってみて、崖になっているのを確認する)、その中から評価関数の数値が最も高い手を採用するのだ。


フィリップ・K・ディックの小説に「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」という、映画「ブレードランナー」の原作があるが、
プロ棋士は、正に、盤面に「将棋」という風景を見ているのであろう。