3月11日

この記事を書いている時点では、復興の目処や原発の冷却作業など、まだまだ予断を許さない状況が続いているが、ここで当日の状況を記録として残しておきたい。



当日、私は仕事で九州にいた。
実験室から事務所に戻ろうとすると、部屋にいたメンバーが数名飛び出して休憩室に走っていった。
何かあったなと直感し、後を追う。九州だったので、最初に頭に浮かんだのは鹿児島の新燃岳の噴火だった。
休憩室にはテレビがあり、既に10名ほどが画面に見入っていた。
画面には地震速報のテロップが流れていた。
東北地方でかなり大きな地震があった、津波に注意,,と徐々に状況が分かってきた。なんと大阪も揺れたらしい。
急いで家に電話。固定電話にも携帯電話にもつながらない。妻の携帯にショートメールを送ると返事が返ってきた。
大きくゆっくり、長い時間揺れたらしい。とりあえずケンの学校に向かうとの事。
(その後、集団下校したケンとすれ違ってしまうが、無事、自宅近くで合流できた。)


当日は羽田に戻る予定だったので、とりあえず空港へ向かう。
羽田空港は閉鎖されているので飛ぶかどうかは未定とのアナウンス。
待っている間、twitterや各種掲示板などで情報収集。
途中、地元新聞社のインタビューなども受けつつ待つが、20時頃になって「欠航」となる。
すぐに昨日まで泊まっていたホテルに戻り、チェックイン。
部屋のテレビとインターネットで情報収集開始。


自宅は地震直後から停電。暗さと暖房機器が動かない事による寒さのため、ケンが「家に居たくない」となり、ケンと妻の二人で
近くの小学校の体育館に避難した。そこには電車が動かないために身動きが取れなくなった修学旅行生が100名ほどいたらしい。
他にも観光客の方々、地元の人たちなどがいた。毛布と飲料水を渡され、手回しラジオで情報収集をしていたようだ。
体育館の中央には発電機に繋がった照明が輝いていた。
停電で信号機も消え、近所の交差点ではスーパーの警備員の方が交通整理をされていたそうだ。


コウは学校に行ったまま連絡取れず。
妻が担任の先生の携帯番号を知っていたので、ダメモトでショートメールを送ると返事が返ってきた。
コウは学校にいて、家族の人が迎えに来ない限り学校に泊まらせるとの事。電車も動いていないのでコウは学校泊が決定。
その後、2時間ほどで停電も直り、ケンと妻は自宅に戻った。


私が九州にいることを知っている数人の友人から、「職場から自宅に徒歩で帰っている。交通状況などを『つぶやいて』」と
言われ、twitter掲示板などでつぶやき続けた。
朝まで歩いて家に辿り着いた友人もいたが、職場と家との途中にある緊急避難所として解放された大型施設で夜を明かした
友人も多くいた。また、帰宅を諦めて職場で一夜を明かした友人もいた。
当日は多くの方々がこの様な体験をされたと思う。


結局、明け方まで私もTVやインターネットでニュースを見たり情報収集を続けた。
飛ぶかもしれないと待っていた影響で、翌日の飛行機は昼の便しか取れず、午後、羽田に戻った。
羽田から自宅までのルートも、友人の「つぶやき」情報などを参考に選択し、短時間で帰ることが出来た。




まだまだ大変な状況は続くと思われるが、思いやりと明日への希望の気持ちを胸に、この困難を、みんなで力を合わせて乗り越えましょう!





最後にプロ棋士谷川浩司さんのコメント記事を紹介したい。
(本当は著作権などの問題があるかと思うが、是非紹介したいので、関係者の方々ごめんなさい)


<生きていくあなたへ>がんばりすぎずに
救助を求めておられる方の身の安全を、まず第一に願います。復興ということまで考えられるような状況ではないと思います。そのうえであえて、阪神大震災で被災した私の経験から言えば、これから長い長い闘いになる。あのとき、ちょっとの差で生死が分かれた。人間は本来、平等であるはずなのに、なぜ自分は無事だったのか、今も答えが出ません。被災された皆様には「がんばってください」ではなく、「がんばりすぎないでください」と申し上げたい。気力だけで乗り切れる期間は限られています。一歩ずつ、少しずつ。そんな気持ちが大事ではないでしょうか。

 津波にのみ込まれてしまった被災地の大きな喪失感を案じています。大切なものを持ち出すこともできなかった方がどれだけいらっしゃることか。本当に多くの人が、日本中が、皆さんのことを応援していること、一日でも早い復興を願っていることを少しでも励みにしていただけたらと思います。
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